当社の主祭神は平安時代前期に実在した人物で、清和(せいわ)・陽成(ようぜい)・光孝(こうこう)三代の天皇の歴史を編年体で記した勅撰国史(ちょくせんこくし)『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』(略称『三代実録』)や、『三代実録』を含む六つの勅撰国史群「六国史(りっこくし)」の記載を支那(しな)(中国)の類書に倣(なら)って分類再編集した『類聚国史(るいじゅこくし)』の編纂(へんさん)に関(かか)わり、『菅家文草(かんけぶんそう)』を著(あらわ)した当代一流の学者詩人であり、優れた政治家でもあった従二位(じゅにい)・右大臣の菅原道真(すがわらのみちざわ)公(贈正一位(ぞうしょういちい)・太政大臣(だいじょうだいじん)、通称菅公(かんこう))であります。 菅公にまつわる生前及び歿後(ぼつご)の逸話(いつわ)に関する分野で雪冤(せつえん)・至誠・孝道・国家鎮護・往生・詩文・和歌・書道等の多岐にわたり信仰の庶民化が一層進展し、昨今は学問・受験・書道の神様、慈悲・安産・詩文・芸能・相撲の神様として信仰され、その御神号「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」を略した「天神」・「天神様」として多くの人々から崇敬されるに至っております。(写真をクリックすると大きな写真をご覧頂けます) 天神様には何故(なぜ)「牛」が付き物になっているのでしょう? 一般には、菅公の生年月日が平安時代の承和(じょうわ)12年(西暦845年)6月25日、つまり干支(えと)で言うと「乙丑(きのと うし/いっちゅう)」に当たっているからと説(と)かれております。 とにかく、天神様と牛にまつわる説話は色々ありまして、菅公が九州は太宰府で亡くなられた時、御遺骸を運ぶ牛車(ぎっしゃ)が途中で動かなくなってしまい、やむなくその地に埋葬したのが安楽寺 ── すなわち、太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)の始まりとする説。農耕の神のシンボルとする説等々があります。しかし、そのルーツはどうやら菅公の御神号「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」にありそうです。大自在天(別名摩醯首羅(まけいしゅら)、ヒンドゥー教のシヴァ神「マヘーシュヴァラ」 Maheśvara)の御姿は仏教では八臂三眼(はっぴさんがん)と言って、八本の腕と三つの眼を持ち、白い牛に乗るとされているので、そこから天神様と結びつけられたのでしょう。(写真をクリックすると大きな写真をご覧頂けます) 田心姫神(たごりひめのかみ)(多紀理毘売命(たきりびめのみこと))・湍津姫神(たぎつひめのかみ)(多岐都比売命(たぎつひめのみこと))・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)(市寸島比売命(いちきしまひめのみこと))の三柱(みはしら)の女神(めがみ)で、総じて「宗像大神(むなかたのおおかみ)」・「道主貴(みちぬしのむち)」とも呼び、最高の道の神と称(たた)えられ、人生進路・交通安全・航海安全の守護神であります。 高天原(たかまのはら)に坐(ま)しました皇祖(すめおや)(皇室の祖先)天照大御神(あまてらすおおみかみ)と、その弟神で海原(うなばら)を治(おさ)められていた建速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)(素戔嗚尊(すさのおのみこと))との宇気比(うけい)(誓約)によりお生れになられた地神五代(くにつかみいつよ)の第二代・正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(人皇(にんのう)初代・神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)(神武(じんむ)天皇)の高祖父(ひいひいじいさん)、通称天之忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと))はその名の通り、「吾(われ)勝ちて負ける事無く、なお勝つ事の速き事太陽(ひ)が昇るが如(ごと)し」として、家門(かもん)繁栄・諸難回避・就職・結婚・入学・商売繁盛(はんじょう)・勝運の御利益(ごりやく)があります。 又、天之忍穂耳尊と共にお生れになった四柱(よはしら)の神は、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(天穂日命(あめのほひのみこと))、天津日子根命(あまつひこねのみこと)(天津彦根命(あまつひこねのみこと))、活津日子命(いくつひこのみこと)(活津彦根命(いくつひこねのみこと))、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)(熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと))で総じて「五男神」と呼ばれ、とりわけ、天之菩卑能命は菅公の祖神(おやがみ)で、その十四世孫(じゅうよんせいのまご)の野見宿禰(のみのすくね)は相撲(すもう)の神として称(たた)えられております。 本殿に合わせてお祀(まつ)りされておりました三柱(みはしら)の神々様は、本殿東側に新たに外宮三社を造営し、平成29年(西暦2017年)1月15日に遷座祭(せんざさい)を斎行(さいこう)、御遷座頂きました。 三社の真ん中にある鎮地社(ちんちしゃ)には、日本神話の天地開闢(てんちかいびゃく)の時に生成(おうまれ)になられた神代七代(かみのよななよ)(天神七代(あまつかみななよ))の神々の内の二代目・国狭槌尊(くにのさづちのみこと)八神(ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの八神)の内の一神をお祀り致しております。その御名(おんな)の内の「狭(さ)」は坂・境を表し、「土」(槌(つち))と合わせて、野の神・坂道を司(つかさど)る神とされ、地の神ゆえに、土地の鎮(しず)め・清め・祓(はら)いに御利益(ごりやく)があります。 三社の右側(東)にある龍神社(りゅうじんしゃ)には、黄金龍神(こがねりゅうじん)とも五色龍神(ごしきりゅうじん)とも呼ばれる龍神様をお祀り致しており、お参りになられる方の感じ方に応じて変化されるようです。 三社の左側(西)にある稲荷社(いなりしゃ)には、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)(宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ))をお祀り致しており、衣食住・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・商売繁盛・福徳円満に御利益(ごりやく)があります。(写真をクリックすると大きな写真(全9枚)をご覧頂けます) 明治15年(西暦1882年)に、天神社の御本殿に八王子をお祀(まつ)り致しておりました。 八王子とは、皇祖(すめおや)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)と弟神・建速須佐之男尊(たけはやすさのおのみこと)(素戔嗚尊(すさのおのみこと))との宇気比(うけい)(誓約)によってお生れになった三女神と五男神を言い、『古事記(ふることふみ)』上巻(かみつまき)に、天照大御神と建速須佐之男尊が互いに邪心の無い事を誓約(うけい)し、天安河(あめのやすかわ)を挟(はさ)んで、その証(あかし)として双方が子生みを行(おこな)われました。先(ま)ず、天照大御神が建速須佐之男尊の腰に付けておられた十拳剣(とつかのつるぎ)(十束剣(とつかのつるぎ))を取って、これを三つに折り、噛(か)み砕(くだ)いて一気に吹き出されました。その時にお生れになったのが、田心姫神(たごりひめのかみ)(多紀理毘売命(たきりびめのみこと))・湍津姫神(たぎつひめのかみ)(多岐都比売命(たぎつひめのみこと))・市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)(市寸島比売命(いちきしまひめのみこと))の三柱(みはしら)の女神(めがみ)で、後(のち)に九州は福岡に鎮座する宗像(むなかた)大社の御祭神として祀られ、世に「宗像三神」と称(たた)えられております。 一方、建速須佐之男尊が天照大御神の左の髪に付けておられた勾玉(まがたま)(曲玉(まがたま))を漱(すす)ぎ洗った時に正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)(通称天之忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと))、又、右の髪に付けておられた珠(たま)からは天之菩卑能命(あめのほひのみこと)(天穂日命(あめのほひのみこと))、天津日子根命(あまつひこねのみこと)(天津彦根命(あまつひこねのみこと))、活津日子命(いくつひこのみこと)(活津彦根命(いくつひこねのみこと))、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)(熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと))の五男神がお生れになられ、五柱(いつはしら)の男神(ひこみこ)は天照大御神の、三柱(みはしら)の女神(ひめみこ)は建速須佐之男尊の御子神(みこがみ)とされました。